Ⅳ-2. 張仲景医書概説② 『金匱玉函経』について

こんにちは!のぐち(@drtwitting1)です☆

前回は中国三大名医の一人、張仲景の作とされる『傷寒論』『金匱要略』について概説させていただきました。今回は残るもう一つの書『金匱玉函経』を解説してゆきたいと思います。

 

1 『金匱玉函経』の内容について

『金匱玉函経』って内容は『傷寒論』に近いんだよねえ?でも書名は『金匱要略』に似ているよね。このへんが紛らわしいんだよなあ...

うん、『傷寒論』『金匱要略』『金匱玉函経』の三書の内容を簡単に表にまとめてみたよ。

  内容
傷寒論 傷寒
『金匱玉函経』 傷寒
金匱要略 雑病

 わあ、本当に簡単にまとめたね。でも『傷寒論』と『金匱玉函経』は同じような内容なのにどうして両方とも刊行したのかな?内容が違うところは何なのだろう?

両者の各篇を表にまとめてみたよ。「弁不可~」「弁可~」といった篇が『金匱玉函経』のほうが多いというのに気がつくかと思う。これらの篇は一般に「可不可篇」と呼ばれているよ。一方、「弁太陽病脈証并治上第五」~「弁厥陰病脈証并治第十二」までは「三陰三陽(病)篇」と呼んだりしている。

宋版『傷寒論 『金匱玉函経』
弁脈法第一 弁脈第二
平脈法第二  
傷寒例第三  
弁痙湿暍脈証第四 弁痙湿暍第一
弁太陽病脈証并治上第五 弁太陽病形証治上第三
弁太陽病脈証并治中第六  
弁太陽病脈証并治下第七 弁太陽病形証治下第四
弁陽明病脈証并治第八 弁陽明病形証治第五
弁少陽病脈証并治第九 弁少陽病形証治第六
弁太陰病脈証并治第十 弁太陰病形証治第七
弁少陰病脈証并治第十一 弁少陰病形証治第八
弁厥陰病脈証并治第十二 弁厥陰病形証治第九
  弁厥利嘔暍病形証治第十
弁霍乱病脈証并治第十三 弁霍亂病形証治第十一
弁陰陽易差後労復病脈証并治第十四 弁陰陽易差後労復病形証治第十二
弁不可発汗病脈証并治第十五 弁不可発汗病形証治第十三
弁可発汗病脈証并治第十六 弁可発汗病形証治第十四
弁発汗後病脈証并治第十七 (第十九に包含される)
弁不可吐第十八 弁不可吐病形証治第十五
弁可吐第十九 弁可吐病形証治第十六
弁不可下病脈証并治第二十 弁不可下病形証治第十七
弁可下病脈証并治第二十一 弁可下病形証治第十八
弁発汗吐下後病脈証并治第二十二 弁発汗吐下後病形脈証第十九
  弁可温病形証治第二十
  弁不可火病形証治第二十一
  弁可火病形証治第二十二
  弁不可灸病形証治第二十三
  弁可灸病形証治第二十四
  弁不可刺病形証治第二十五
  弁可刺病形証治第二十六
  弁不可水病形証治第二十七
  弁可水病形証治第二十八
  論熱病陰陽交併生死証二十九

「三陰三陽篇」は主に多くの研究者や臨床家に読まれている篇になります多くの解説書も「三陰三陽篇」を解説しています。一方、「可不可篇」は解説されることはすくないでしょう。一見すると「三陰三陽篇」にも存在する条文を「発汗してよいか、発汗させてはダメか」などといった観点で配置し直したようにみえます。しかし、「三陰三陽篇」より「可不可篇」のほうが古いとする説もあります*1

『金匱玉函経』で特筆すべきは、巻首の「証治総例*2」に『千金方』や敦煌本『張仲景五蔵論』との一致を見る文章があること*3、また「弁脈第二」がスタイン敦煌文書No.202との一致を見る*4など、旧態を保持していると考えられることです。

スタイン敦煌文書とは『傷寒論』弁脈法より『金匱玉函経』弁脈の方がより一致を見るというところが非常に興味深いです。『傷寒論』と『金匱玉函経』は似た内容ですが、本来は両方とも合わせて研究すべきなのはこういった理由です。

2 『金匱玉函経』の伝承と刊行の経緯

次に『傷寒論』と『金匱玉函経』は同じような内容なのに、北宋政府はどうして両方とも刊行したのかな?という疑問について、北宋校正医書局が『金匱玉函経』の冒頭に付した「校正金匱玉函経疎」を読んでみたいと思います。

『金匱玉函経』と『傷寒論』とは同体にして別の名を持つ書物である。相互に検閲させるために表裏に分かち、もって後世の亡逸を防ごうとしたのだ。その心はまことに深いものがある。考察するにこの書も(『傷寒論』と同じく)王叔和の撰次による。仲景に『金匱録』という著書があったので「金匱玉函」と名づけたのだろう。宝を取って蔵すという義である。(中略)
国家は儒臣に医書の校正を命じ、私たちはまず『傷寒論』を校定し次にこの書を校定した。その文理にはあるいは『傷寒論』を異なるところもあるが、その意義はみな聖賢の法に通じている。したがって憶断はせず両者とも旧態を保存することとした。およそ八巻、もともとの篇目により29篇、115処方とする*5

 北宋校正医書局は『傷寒論』と『金匱玉函経』を表裏不可欠の典籍と考えていたことがわかります。そしてどちらも3世紀後半の王叔和の撰次を経て伝承されたと考えていたようです*6

私が注目するのは『傷寒論』と『金匱玉函経』の記載様式の違いです!

傷寒論』では主治条文とすぐ後に処方(レシピ)と方後の文書があります。ところが『金匱玉函経』は処方と方後の文章は別の巻にまとめてあります、つまり主治条文が並んで記載されているわけです。『金匱要略』の刊行において元となった『金匱玉函要略方』も処方と方後の文書は下巻にまとまっていました(前回参照)。

f:id:drnoguchi:20190303203033j:plain

傷寒論』葛根湯条

つまり内容に関して『傷寒論』と『金匱玉函経』は似ています。ただ書名や記載様式は『金匱玉函経』と『金匱玉函要略方』(『金匱要略』の元本) が似通っているわけです。これより『金匱玉函経』は『金匱玉函要略方』と同じく葛洪『玉函方』百巻と伝承過程において関連がある*7という説があります。

3 宋以後の『金匱玉函経』の伝承

これまで『金匱玉函経』の重要性について強調してきましたが、北宋政府が刊行した後、南宋以降ほとんど伝存しなかったようです。多くの人々は『傷寒論』それも成無己が注釈した『注解傷寒論』が広く利用されたためでしょう。

現在伝わる『金匱玉函経』は、康熙56(1717)年に上海の陳世傑が宋代の写本(手書きの本)を得て刊行したものです。陳世傑序文によると「この宋抄本は訛脱が多く、校訂を重ねてようやく読めるようになった」ということで、あまりよい宋抄本ではなかったようで、またその宋抄本自体も現存してはいません。

よってテキスト批判の観点からすると疑問がもたれるわけですが、先に述べたように敦煌発掘文献などとも内容が一致することなどから、現行本が捏造にかかる可能性は否定できます。

4 まとめ

 

今回は張仲景の作とされるもう一つの書『金匱玉函経』を解説してゆきました。

 

あまり『傷寒論』『金匱要略』に比べてスポットライトのあたる書ではありませんが、その存在くらいは知っておいていただけると、名称の似た『金匱要略』と混同せずにすむと思います。

私自身、知らないことが多く図書館でずいぶん調べました。『金匱玉函経』証治総例は似た文章は他の医書にもあるものの非常に興味深い篇なので、今後少し研究してみたいと思いました。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

*1:牧角和宏「宋版傷寒論可不可篇の成立について」、『日本医史学雑誌』 44巻2号56-57頁、1998。
また森立之研究会編『宋以前傷寒論考』、東洋学術出版社、2007にも詳しい

*2:山田業広(1808-1881)が証治総例の研究を『金匱玉函経証治総例箋注』にまとめている。

『山田業広漢方原典集成』、オリエント出版社、1998.4

*3:宮下三郎「敦煌本「張仲景五蔵論」校訳注」、『東方学報』35冊 1964、03、289~330頁

また小曽戸洋氏は『医心方』と一致を見ることを指摘している。筆者はまだ『医心方』との比較はできていない。

小曽戸洋『中国医学古典と日本』、塙書房、1996

*4:三木栄「スタイン敦煌文書No.202と現伝宋板『傷寒論』弁脈法並びに『金匱玉函経』弁脈との比較-付No.5614&6245『平脈略例』」『漢方の臨床』6巻5号、3~28頁、1959

*5:金匱玉函経與傷寒論同體而別名.欲人互相檢閲而爲表裏.以防後世之亡逸.人之心不已深乎.細考前後乃王叔和撰次之書.緣仲景有金匱錄故以金匱玉函名.取寶而藏之之義也(中略)国家詔儒臣校正醫書.臣等先校定傷寒論次校成此經.其文理或有與傷寒論不同者.然其意義皆通聖賢之法不敢憶斷.故並兩存之.凡八巻依次舊目總二十九篇一百十五方

*6:小曽戸氏は『中国医学古典と日本』にて、『金匱玉函経』巻六弁可刺病形証治第二十六の「婦人中風発熱悪寒…」条に「平病云…」とある語句が王叔和『脈経』巻七病不可刺第十二に類似していることから、『隋書』経籍志にある『張仲景評病要方』に拠る六朝人の注記ではないかと推定している。

*7:遠藤次郎・島木英彦・中村輝子「『金匱玉函経』および『金匱玉函要略方』における葛洪の役割り」『漢方の臨床』49巻1号,113-123頁、2002