Ⅰ‐2. 序文②―剳記という著述スタイル

漢方などの中国医学古典の研究において多紀元簡・多紀元堅をはじめとする江戸考証学の功績は計り知れない*1考証学はもと中国の清代に流行した学問である*2

清代学術概論―中国のルネッサンス (東洋文庫 245)

清代学術概論―中国のルネッサンス (東洋文庫 245)

 

考証学の特徴として以下の点が挙げられよう。

  • 以意逆志…意を以て志に逆(むか)う。意を以て詩人の志に逆い、その実情を理解する。
  • 因声求義…声に因って義を求む。音韻論を駆使して古代の音韻を復元して古典を解釈する。
  • 通経到用…経学に通じて実践に役立たせる。
  • 実事求是…事実に基づいて事物の真相・心理を求めること。
  • 無徴不信…確かな証拠がなければ信用しない。

誤解を恐れずにわかりやすく言えば、エビデンスに基づく古典解釈を目指すのが考証学ということになる。

論語』に「述べて作らず(述而不作)」という言葉がある。色々な解釈があるが、「解釈を述べることはするけれども、新しい著作はしない」と捉えることもできる。孔子は経典の解釈はするけれど、新たに経典を著作しなかった。 孔子儒学の開祖ではなく、それ以前からあった経典を解釈した祖述者という位置づけになる。 したがって後代の人が経文に疑問や批判をもっていたとしても、経文をいじることはせず注釈で自分の意見を述べるにとどめる著作スタイルが中国の伝統的学問にはあった。

考証学者の著述スタイルに剳記(札記とも。さっきとよむ)という体裁がある。「読書したときの感想・意見などを、随時書き記したもの」などと辞書的には解説される。

文体の特徴としては

  • 俗でないこと
  • 古でないこと
  • 末梢的なことは省くこと

といった特徴がある。華美な文体は避けて質実剛健といった趣がある。

考証学者の剳記とは以下の図のようである*3

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剳記について(梁啓超『清代学術概論 中国のルネッサンス平凡社より筆者が図式化)

剳記には以下のようにいくつかの段階がある。

  • 原料…一つの事実について最初に注意して観察したもの
  • 粗製品…羅列比較してみずからの意見を加えたもの
  • 精製品…意見についてくりかえし証拠を引いてのちに定説と認めたもの

 精製品の剳記は一文はそれだけで現代の人文系論文1本と同じくらいの重みがあるときもある。ただ一文に凝縮されているためその論拠を示す資料性が少なくなってしまう。後人にとっては粗製品レベルであると資料性が高くて、利用価値が高いことが多い。

したがってブログやホームページサービスが普及している今日において、古典研究して論文には至らないような内容であっても、比較研究した過程を剳記という著述スタイルで公開することは意義があると思う。

*1:町泉寿郎「医学館の学問形成(一)」『日本医史学雑誌』、45巻3号、1999

*2:参考文献は多数ある。

濱口富士雄 『清代考拠学の思想史的研究』 国書刊行会、1994年
木下鉄也 『清朝考証学とその時代』 創文社、1996年

*3:梁啓超 『清代学術概論 中国のルネッサンス 』小野和子訳、平凡社