Ⅲ-4. 証類本草② 『新修本草』~『嘉祐本草』『図経本草』北宋政府の医書校正
こんにちは!のぐち(@drtwitting1)です☆
この記事では、前回の続きとしてさらに証類本草を見てゆきたいと思います。
前回(Ⅲ-3)、『神農本草』から『集注本草』までの変遷を実際に証類本草(政和本草)で読んでゆきました。この先はしばらくは政府が本草を編纂してゆくことになります。唐の顕慶2(657)年に蘇敬らが『集注本草』を増訂して20巻となした『新修本草』が皇帝の命によって編纂された中国最古の勅撰本草となります。
今回もこちらの画像とともにご覧ください。
新修本草 二十巻
唐の顕慶2(657)年に蘇敬らが『集注本草』を増訂して20巻となした『新修本草』が中国最古の勅撰本草となります。世界初の薬局方とみなすこともできるかもしれません。薬局方の定義にもよりますが。
「唐本注」以下の注が『新修本草』で付加された箇所です。『集注本草』から新たに加わった薬(新附品)がありますが、これらはいわゆるシルクロードを経ての西域諸国との交易がさかんに行われたことを反映しているようです*1。
新附品については旧薬の例にならって気味・薬効・産地などを本文として黒字大字文で書いてあるのでこれらを『名医別録』文と誤認しないように注意しましょう。
部分的ではありますが仁和寺本『新修本草』(京都・仁和寺所蔵)*2など『新修本草』は現存しています。
開宝本草 二十巻
ここまでの本草はすべて写本(手書きの本)で伝えられていました。医療に力を入れた北宋政府はこれまで写本で伝わってきた医書を校訂して木版印刷で刊行しました。医書の中で本草は重視されていたようで、開宝6(973)年には早くも太祖の詔によって『開宝新詳定本草』、翌年(974)にさらに改訂して『開宝重定本草』が刊行されました。
写本で伝承されていた『新修本草』において『神農本草』が朱字大字文、『名医別録』が黒字大字文でしたが、木版で印刷するにあたり『神農本草』を白字、『名医別録』を黒字としました。
陳蔵器『本草拾遺』(739年)*3などの諸書を参照して別名を正し、品目を増益し注をさらに付加しました。
嘉祐本草 二十巻
北宋の嘉祐2(1057)年に仁宗の命により校正医書局が発足し、多くの医書の刊行事業を行いました*4。校正医書局がはじめに手がけたのが本草分野で、掌禹錫・林億・張洞・蘇頌が校訂に着手し、嘉祐6(1061)年に『嘉祐補注神農本草』と『図経本草』が刊行されました。
本草分野は掌禹錫が主たる担当者であり「臣禹錫等謹按~(儒臣である掌禹錫らが謹んで考察するに…)」以下の細字双行注文が嘉祐本草で加えた注釈文になります。多くの注釈は他書の引用で『薬対』*5、『呉子(本草)』、『薬性論』、『日華氏(諸家本草)』などの在野の本草書や『爾雅』『広雅』などの辞書の類も引用される。自説は極めて少ないのが特徴です。
図経本草 二十巻
『嘉祐本草』と同じ嘉祐6(1061)年に刊行されました。代表担当者は蘇頌です。薬図とともに古書や経験による多くの解説を加えました。『嘉祐本草』が自説が少ないのと対照的とも言えます。
「図経云~」以下の文章が該当部分です。