Ⅳ-1. 張仲景医書概説①

最終更新日 2019/02/01

こんにちは!のぐち(@drtwitting1)です☆

今回は中国三大名医の一人、張仲景の作とされる『傷寒論』『金匱要略』『金匱玉函経』を「張仲景医書」と称してこれらについて解説してゆきたいと思います。

 

1 張仲景と『傷寒論』についての基礎知識

張仲景は後漢後期の人で長沙の太守となったとされておりますが、『後漢書』『三国志』などに伝はなく、有力な史料がありません。名は機、仲景は字だとされていますが、張機と張仲景は別人だとする説、架空の人物であるとする説まであります。

傷寒論』の張仲景自序にはその著述の意図について言及があるので紹介します。

私の一族はもともと大人数であって、二百人にも余る程であった。しかし建安紀年(196年)以来、10年も経たないうちに3分の2が死んでしまい、死者の7割は傷寒によるものであった。過去の大きな犠牲、夭折の救いがたきに心を痛めた。そこで私は古訓を求め、広く処方を採集した。また『素問』、『九巻(現在の霊枢)』、『八十一難経』『陰陽大論』『胎臚薬録』を参照して、平脈弁証を加え『傷寒雑病論合十六巻』を編述した。未だ全ての病を治すという訳にはいかないが、もし病の原因を追求し私の著書を調べてもらえれば、おおよその理解はできるであろう。*1

こんなに大きい被害を出した「傷寒」ってどんな病気だったの?

以前は腸チフスといわれていたが、新型インフルエンザやSARSのようなウイルス感染症パンデミックだったと推察されています。ただし『傷寒論』は長い時代を経て伝承されてきたものだから、様々な感染症の治療が入り込んでいるとも考えれられる。このあたりはまだ研究の余地があるけどね。『傷寒論』の編述意図としては大流行した傷寒の暫定的なガイドラインといったところでしょうか。

 

2 傷寒と雑病について

 張仲景の自序にあった『傷寒雑病論十六巻』が『傷寒論』(傷寒部分)と『金匱要略』(雑病部分)に分かれて今に至るという解釈でOK?『金匱玉函経』というのは『傷寒論』の異本だと聞いたけど?

大まかな理解としては良いのだけれど、厳密にはそうではないということに注意してください。これから解説します!

 張仲景の著作に、傷寒に関するもの、雑病(含婦人病)に関するものあったらしいことは確かです。これが現行の『傷寒論』『金匱要略』『金匱玉函経』とどのように関連しているか、これは複雑で研究の余地が多々ありますが、単純化して紹介してみましょう。

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傷寒論金匱要略

 まず現行の『傷寒論』『金匱要略』の直接の起源は、北宋政府が刊行したものになります。それまでの伝承過程では写本(手書き)でしたが、北宋政府は校正医書局に医療事業として医書を印刷物として刊行させました。

その経緯が『金匱要略』に付された北宋政府校正医書局の儒臣、高保衡・孫奇・林億の序文に明記されています。

ちょっと長いけれど大事な文章なので、脚注に示した真柳先生の論文より引用します。

(自分で翻訳するの諦めたんだな...)

張仲景は「傷寒と雑病の論」合十六巻を著した。しかし今の世(北宋)にはただ『傷寒論』十巻が伝存するのみで、「雑病の論」は世にみえず、その一・二割が諸家の方書に引用されているにすぎない。ところが翰林学士の王洙はある日、国家の図書館で虫損を受けた古書中に、仲景『金匱玉函要略方』三巻を発見した。当書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。そこで転写して数人の学識者にのみ伝え、配剤薬と主治証が完備している処方を使用してみたところ、効果は神のごとくであった。しかし当書のある部分は病証の記載のみで相応する配剤薬が欠落していたり、逆に配剤薬のみで主治証がないなど、治療に使用するには不完全な書である。

国家はわれわれ儒臣に医書の校訂を命じ、すでに『傷寒論』、次に『金匱玉函経』を校刊し、今また当書の校訂が完成した。この校訂では、下巻にあった処方をおのおの相応する証候文以下に配置しなおし、救急の際に便宜をはかった。また諸家の方書中に散在する仲景の雑病に関する論説と処方の佚文を採取、各篇末に「附方」として補遺し、当書の治療法を広げた。しかし上巻の傷寒部分は(『傷寒論』と比較して)節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までを残し、全二十五篇とした。処方は重複を除き総二百六十二方、これを上中下の三巻本に再編成した。書名は(王洙発見書の)旧称を踏襲して『金匱方論(金匱要略方)』とする。*2

 長くてよく分からなかったよ...

 うんうん、上の図でも示しているけどまとめると以下のようになります。

 ①北宋時代に伝わっている『傷寒論』十巻には雑病部分が載っていなかった。*3

(唐代の医書『外台秘要方』が引用する『張仲景傷寒論』十八巻は傷寒と雑病の内容を含んでいる。『外台秘要方』が引用する『張仲景傷寒論』とは唐政府が医生の教科書とした唐政府本『張仲景傷寒論』と一致するであろう*4

②王洙が国家の図書館で『金匱玉函要略方』三巻を発見した。当書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。しかし上巻の傷寒部分は(『傷寒論』と比較して)節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までを残し、全二十五篇とし『金匱要略』を刊行した。

③『金匱要略』は北宋政府校正医書局によって仲景の雑病治療書として再編された一種の「輯佚復原本」である。

 

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金匱要略の成立

 ④王洙が発見した『金匱玉函要略方』三巻は、書名や『金匱要略』少序と葛洪『肘後方』序の類似性から、葛洪『玉函方』百巻との関連が疑われる*5

したがって張仲景の医書は傷寒部分は唐政府本『張仲景傷寒論』、雑病部分は葛洪『玉函方』を経由して現行の『傷寒論』『金匱要略』へと伝承していった可能性が高い*6

まとめ

今回は中国三大名医の一人、張仲景の医書の伝承について概略を説明しました。

一般に傷寒部分の論説が『傷寒論』、雑病部分の論説が『金匱要略』として理解されていますが、複雑な伝承を経て現代に伝わっているということが伝われば幸いに存じます。

特に『金匱要略』については北宋政府校正医書局によって仲景の雑病治療書として再編された一種の「輯佚復原本」であるという点を知らないでいると、利用しにくい部分がある書物です。

まだ解説に不足がありますが、また次回以降にしたいと思います。

*1:原文は以下の通り。
余宗族素多.向餘二百.建安紀年以来.猶未十稔.其死亡者.三分有二.傷寒十居其七.感往昔之淪喪.傷横夭之莫救.乃勤求古訓.博采衆方.撰用素問.九巻.八十一難.陰陽大論.胎臚薬録.并平脈辨証.為傷寒雑病論.合十六巻.雖未能尽愈諸病.庶可以見病知源.若能尋余所集.思過半矣

*2:真柳誠「『金匱要略』の成立と版本(目でみる漢方史料館258解説)」『漢方の臨床』57巻3号405-420頁(「目でみる漢方史料館258」同382-384頁)、2010年3月より引用。宋臣序の原文は以下の通り。

張仲景為傷寒卒病論合十六卷今世但傳傷寒論十卷雜病未見其書或於諸家方中載其一二矣翰林學士王洙在 館閣日於蠹簡中得仲景金匱玉函要略方三卷上則辨傷寒中則論雜病下則載其方幷療婦人乃錄而傳之士流才數家耳嘗以對方證對者施之於人其效若神然而或有證而無方或有方而無證救疾治病其有未備 國家詔儒臣校正醫書 臣奇先校定傷寒論次校定金匱玉函經今又校成此書仍以逐方次於證候之下使倉卒之際便於檢用也又採散在諸家之方附於逐篇之末以廣其法以其傷寒文多節略故所自雜病以下終於飮食禁忌凡二十五篇除重複合二百六十二方勒成上中下三卷依舊名曰金匱方論

*3:ただ雑病部分が欠落してしまっていたというのは疑わしいと私は考えている。さらに考究したい。

*4:真柳は「林億らも宋改本『千金方』の校定後序に「臣嘗読唐令、見其制為医者、皆習張仲景傷寒陳延之小品」と記す。以上からすると開元7年令に次ぐ737年の開元25年令で医生の学習書に『張仲景傷寒論』が指定されたのは疑いない」、また「752年に完成した『外台方』が引用する『(張)仲景傷寒論』18巻は唐政府本に間違いない」と言及している。

真柳誠「中国11世紀以前の桂類薬物と薬名-林億らは仲景医書の桂類薬名を桂枝に統一した」『薬史学雑誌』30巻2号、96-115頁、1995

*5:遠藤次郎・島木英彦・中村輝子「『金匱玉函経』および『金匱玉函要略方』における葛洪の役割り」『漢方の臨床』49巻1号,113-123頁、2002

*6:楊歓「唐代 『張仲景傷寒論』 の検討」、『日本医史学雑誌』57巻2号、149頁、2011年